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手は口ほどに #11:深煎りの焙煎にこだわる、珈琲の伝道師

働く手は、その人の仕事ぶりと生きてきた人生を、雄弁に物語る。達人、途上にある人、歩み始めた若者。いろいろな道を行く人たちの声にゆっくりと耳を傾けるポートレート&インタビュー連載。

photo: Masanori Akao / edit&text: Teruhiro Yamamoto

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ポットを回さず、注ぎ口から真っすぐに湯を垂らし、左手に捧げ持つネルドリップを回す。湯気とともにたつ芳醇な香りに包まれて、ゆっくりゆっくりと珈琲を淹れていく。大坊勝次さんの静謐な所作は、あのころと変わっていない。

1975年から2013年までの38年間、青山にあった「大坊珈琲店」は最高の珈琲を出す伝説の店として知られる。インタビューの冒頭でそう言うと、大坊さんは「珈琲を極めていたというのは、誤解だと思います。自分が飲んで美味しいと思う珈琲を作っていただけ」とにべもない。

淹れる人が100人いれば、味も100通り。「それが、世界中で珈琲が飲まれる理由かもしれない。ですから、達人だと言われるとびっくりしてしまいます」。ただ、「美味しいと思わないものを出すのは不誠実だと思っていた」とも言う。

盛岡の高校生だった大坊さんが喫茶店に通ったのは、珈琲ではない別の理由があった。「親しい友人が文学に詳しくて、この本を知っているかと話してくれる。それが楽しくて。学生だけで喫茶店に行くのは禁止だから、よけいに行きたくなる」。

そんな10代を過ごすなかで、いつかそういう珈琲店をつくりたいという気持ちが芽生えた。銀行に就職して上京し、先輩が立ち上げた会社の経理マンに転身し、その先輩が始めた珈琲店で働き。そして、20代後半の若さで独立して「大坊珈琲店」をスタートさせた。

「当時、吉祥寺にあった珈琲店『モカ』の深煎りが美味しいと評判だった。でも、自分たちで豆をもっと焼き切ってみたら、こっちが美味しいと分かりました。そのときに、深煎りのポイントが決まったのです」。

ネルドリップを使うスタイルは、また別の珈琲店で出会った。「『カフェ・ド・ランブル』のカウンターに座って珈琲を淹れるのを見ていたときに、ネルドリップにスーッと一本の線が入るのを見て、これしかないと」。レジェンドとなった大坊さんが、若き日に先達の珈琲店に通った話は興味深い。

「大坊珈琲店」を構えた青山の場所柄か、「一人で過ごすお客様が多かった。自分と向き合う場所です」。サードウェーブコーヒーの立役者である「ブルーボトルコーヒー」の創始者ジェームス・フリーマンも店を訪れて、後に大坊さんに「あの静謐な空気を乱してはいけないと思った」と話してくれたらしい。

いろいろなお客様がいて、また来てもらいたい。だから、「一人で過ごすための、濃くて苦い珈琲じゃないと」。

大坊さんは「すべての責任は焙煎にある」と考える。使う豆は、コロンビア、エチオピア、タンザニア、グアテマラの4種類。安定的に手に入る昔から輸入されている豆を使って、「焼き方でなんとか美味しくしてやろうじゃないかということ」。

火を全開で焙煎を始めて、少しずつ火を抑えていく。爆ぜそうになったら、さらに抑えて、いち爆ぜを遅らせる。爆ぜると、また火を下げて、一種類の豆1キロを焼くのに30分かける。苦味に傾いたり酸味に傾いたり。甘みに包まれて苦味も酸味もあるのが理想だが、それがなかなか難しい。

「豆を焼いていくと、ふっと強さがなくなる。強さとは、たぶん酸味で、それが消える。豆の持つ苦味も消えるけれど、深煎りの苦味が急に生まれてくる。その直前がポイント」。酸味ゼロのポイントを7.0とすると、6.9だったり7.1だったり。4種類の豆に役割を持たせて、焼き分けてブレンドする。

2013年、ビルの建て壊しで「大坊珈琲店」は閉店した。「あと10年続けられるぐらいのトレーニングはしていました。ずっと立って仕事をすると思っていたので」。今は、珈琲のワークショップなどの日々。「そのときにも、前もって、自身の味を作るつもりでやってくださいと必ず言います」。

珈琲店の数は格段に増えて、「100人100通りの味。いいことですよ」と静かに微笑む。そして大坊さんは「自分の責任でこういう味になると、自分にぎっしりと言い聞かせて」、今日もまた珈琲を淹れる。

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